40歳でがんになる② 〜告知から手術まで〜

40歳がんになる

私ができた癌は回盲部という小腸と大腸のつなぎめです。病名は回腸がん。
回腸がんは希少がんの一種ですが、回腸がんをステージⅠの早期がんの段階で見つけることができたのは奇跡だと担当医に言われました。「ラッキーだったね」と。
息子は小学1年生。仕事に育児とフル回転で動いている頃。コロナの猛威が始まった頃の話です。
早期発見に繋がった体の変化を発信することで、同じようにラッキーながん患者が増えるようにと願っています。

告知


3週間後、検査の結果が出る頃に診察の予約をしていました。

「先生たちも大丈夫だと思う」って言ってたから、きっと良性だろう、最悪、悪性でも内視鏡の切除で取り切れているだろう、そう思って軽い気持ちで病院に向かいました。

診察の前に中待合に入ってください、とベルがなり、中待合へ移動します。
次が自分の番だな、と思ってドアの前で待っていましたが、
後から呼ばれた夫婦が先に診察室に呼ばれました。

嫌な予感がしました。
私の結果が悪かったから、時間がかかるから後ろの人を先に呼んだんじゃないかと。

先に呼ばれた夫婦は「よかったね、安心したね」と話しながら出てきました。
次に私が呼ばれました。

すぐに結果を言われず、「やっぱり入院して取ってよかった」とか。。。やや周りくどい。
ここで結果が良くなかったんだなと気づきました。

結果は悪性でした。20%の確率でリンパ節転移の可能性があります。回盲部を切除する手術が必要になるので、消化器外科に紹介しますので予約してください。その時は旦那さんも一緒に来てください」と言われました。

ショックを受けた。

想像より悪かったから。
「なんかとてもショックなんですけど、ショックを受ける内容でいいんですよね。」としきりに口に手を当てながら言ったのを覚えています。

頭の中で残った言葉は「リンパ節転移の可能性20%・・・」そんなに進んでたか、と。
ステージⅢの可能性が20%。私には高い確率に感じました。

診察室で外科の予約の日にちを確認するため、夫に電話しました。
「悪性だった。手術の必要があるから次の診察は一緒に来てほしい。」と。夫は落ち着いていた。
淡々と予約して帰宅しました。

帰り道で涙が止まらない 

「どうしよう、やばいな」そんな風に思いながら、涙が止まらない。
電車の中なのに。
帰りに予約していた息子のオモチャを電気屋にとりに行かないといけないのに。
都会の真ん中の信号待ちで涙が止まらない。

夏休みの最中で家では夫と息子が留守番していました。
新しいオモチャを渡して楽しくやるはずだったのに。。。

回腸がんのステージⅢの5年生存率は20〜50%(リンパ節転移の数による)
小学校の入学式を終えたばかりの息子の卒業式に出られる確率が50%以下の可能性が出てきてしまった。
帰宅して息子の顔を見た途端、また涙が出てくるのを我慢できなくて。
見られないように別の部屋に移りました。

思ったより悪かったね、と夫に伝えてまた涙ぐむ。

夫の仕事上、外科の診察まで5日待ちました。
もし、リンパに転移していたら、、、とにかく早く治療したい。
そして、この4日間は油断すると涙が出てくる、一番落ち込んだ日々でした。
でもこの時以来、泣くことはありませんでした。

手術日の決定

大腸外科の先生の診察の日。子供は親戚に預けて2人で診察へ。

主治医の先生は日本屈指の消化器癌専門の先生でした。
とてもフランクに話をしてくれて、わからないことも丁寧に対応してくれる優しい先生でした。
たくさんの癌の方を診ている先生だから、私の小さな癌は本当に早期の軽いものだという対応でした。

「回腸がんも珍しいけど、この部位で早期発見がまずないことなんだよ。ラッキーだったと思って」

落ち込みそうになると、先生のラッキーだったんだよ、って言葉が勇気づけてくれました。

手術の日は3日後に決まりました。
明後日には入院。そしてその入院の日は私の41歳の誕生日でもありました。

転移していたら、早く取ってしまいたい。
治療が進まないとか検査の結果を待っている時間がもどかしい気持ちになって苦手だから、コロナ禍ですぐに手術日が決まったのはありがたかったです。

優しい名医に出会えたことも含めて、やっぱり私はラッキーでした。

入院準備

入院が明後日からとなると準備する日は翌日の1日のみ。
早速ユニクロでショーツとカップ付きタンクトップを大量に購入。
入院予定は1週間。手術後4日は洗濯するのは大変かなと考え、5セットずつ。
コロナ禍で面会もできないから自分で全てやろう。
洗濯洗剤やシャンプー。歯ブラシ、蓋付きコップなどなど。
小1の息子と毎晩テレビ電話するだろう、、、古くなっていた携帯を新しいものに替えました。
新しい土地に引っ越して2年。あまりママ友もいませんでしたが、学校帰りにお世話になるかもしれないママ友に連絡。
コロナ真っ只中。都内に両親を呼び寄せるわけにもいかず、夫が仕事をセーブすることになりました。

手術の日だけは病院内にいないといけないので息子は病院近くの親戚のお家でお願いしました。
息子には「病気になったら悪いところ取ってくるね」と伝えて入院しました。

息子は誕生日に入院する母のために一日早く誕生日会を開いてくれました。

「1日早いけど、お誕生日おめでとう」

元気になって帰ってこよう!
心に決めて、入院しました。

入院

また、ゴロゴロとトランクを転がしながら一人で病院に向かいました。
世の中は自粛モード。旅行は控えるよう言われていた中。一見元気だから旅行感出てるかしら、なんて周りの目を気にしながらトランクを引き電車に乗りました。

病院に着いたら、入院手続きをして病棟へ。4人部屋の廊下側のベッドだでした。

看護師だから病院の入院とか手術とか見慣れている、、、、でもいざ患者側になると、全てのことがドキドキで。違うんです。立場が違うと本当ただの患者です。

今日の夜は絶食。綺麗にシャワーを浴びて明日に備えました。

緊張して眠れなかったら薬飲めますよ、と言ってもらえたが、明日いっぱい寝るから、と断り、小心な私はあまり眠れず朝を迎えることになりました。

手術


朝一番の手術。歩いて手術室に向かいました。

私の手術は難しい手術じゃない。
しかも早期の癌である。
病院のスタッフは私が看護師だと知っていたから、そんなに緊張しなくても、と言ったが、無理だ、全身麻酔すら怖い。緊張の中、手術台によじ登った。

薬の効果は効きやすい方だから麻酔はあっという間に効くだろうと予想していました。
本当にあっという間。
記憶が戻ったのは口に管が入って苦しいな、と思った途端に管を抜かれ、手術が無事に終わったと伝えられました。
手術室から出たら夫がいて、家族に送るからと写真を撮られました。
夫は病棟には行けなかったから、1分程度の移動時間のみの面会でした。

病棟に戻ると眠さの中に気持ち悪さが混ざった感じでした。

痛かったらボタンを押すと痛み止めが流れる、と説明を受け、やっぱりお腹が痛かったから、押してみたら、グワングワンを目が回ります。
これは、もう押すのはやめよう。

足は血栓予防のマッサージ機が着いていて、痛みと足のマッサージで眠れない。
手術は14時に終わったから、明日の朝にはこの痛みは落ち着くだろう、と勝手に計算し、分娩時間が40時間だった私は、出産より時間は短いはずと自分を励ました。
長い夜だったが、うとうと。
やっぱり朝方には痛みの波は超えていて、一番辛い時期を乗り越えられました。

術後1日目

朝8時過ぎに日勤の看護師さんが挨拶に来ました。
あとで一緒に起きてみよう、と。
術後の患者に早期離床を促すことはたくさんやってきました。
次は自分の番です。必要性は十分理解しています。

昼頃、看護師さんがきて一緒にトイレまでゆっくり歩きました。痛いは痛い。でも意外とふらつきもなく歩けました。前屈みでのそりのそり、恐る恐る。

少し動くと、眠くなる。よく眠った。 

お腹も痛いが、左肩も痛い。手術時二酸化炭素をお腹に入れるらしく、それが横隔膜を刺激して肩が痛くなるらしい。
自然によくなるようだが、気休めに湿布を貼ってくれました。
そんな優しさが嬉しい。効くか効かないかじゃない。スッとした湿布の冷たさで紛れた気がしました。それだけでいい、何かしてくれたことが嬉しいんです。

入院して、看護師や医師のやさしさに助けられました。
私が今看護師一年目だったらこの病院に入って癌専門の看護師になりたいと思いました。

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